なぜカミカゼの記念碑がフィリピンの地に建てられたのか

 私は、少年の頃にフィリピンのアンヘレスという小さな町を占領した日本軍将兵達と親しく接する機会がありました。彼らの雄々しさや荒々しさを肌で感じ、私は彼らに対し畏敬の念を持っていました。戦後になって、『ディバイン・ウィンド』(神風特別攻撃隊』猪口力平・中島正著、日本出版共同の英語版)という本を偶然入手し、私がかつて接していた日本軍将兵の中に「カミカゼ」の飛行士達がいたことを知りました。その本に書かれていたことは、戦争当時に私が体験したことでした。私はカミカゼの精神を知り、その崇高さに打たれ、彼らのために何かしなくてはいけないという衝動に突き動かされました......

著書「フィリピン少年が見たカミカゼ」はじめにから引用 桜の花出版 2007.10.6 初版第1刷発行

特攻の碑

 写真はフィリピン・マバラカットの日本軍基地跡に建立されていた特攻の碑である。「されていた」というのはこの碑が残念ながら1991年6月、20世紀最大400年ぶりのピナツボ火山の噴火により埋もれてしまっているためである。この碑を建立したのは、当然日本人ではない。

 フィリピンのカミカゼ記念協会、マバラカット町とその町民、観光局、アンヘルス市土木局などである。土地を提供したのも一人のフィリピン人らしい。また、建立作業の際はマバラカット町長自らセメントを練り、ブロックの積み上げ作業までしたそうである。

  反日感情の強いと言われているフィリピンに於いて何故このようなことが出来たのか? それは、フィリピン人画家で歴史協会のメンバーであるダニエル・H・ディソン氏によるところが大きい。ディソン氏は「神風特別攻撃隊」(猪口・中島)の英語版を読み、大変な感銘を受け、この碑を建立するに尽力されたようだ。ここでは、彼が1970年に作者の一人猪口力平に送った書簡の一部を引用する。

 

ダニエル・H・ディソン氏の書簡 

 「私はこの書を熟読し、祖国愛にもえて散華した、これら若い特攻隊員に想いをはせるとき、感激の涙を禁じえなかった。彼らは永遠に記憶され、尊敬されるべきであると確信する。いまなお、冷たい海の墓場に眠っている、これら勇士たちの霊をとむらう私の微意を具現するため、まず最初に、1944年10月20日、大西提督が特別攻撃隊の編成を命じた神風特別攻撃隊発祥の地に標識をたてたいと思う。さらに、できれば、この地にささやかな記念館を建設し、これら勇士たちの写真をはじめ、特別攻撃隊戦闘の写真や絵画などを展示したい・・・・・」

 

  「この歴史的な聖堂は、政治的な親善関係に資するものではなく、烈々たる祖国愛にもえ敢然として身命を国家にささげたすべての民族の人を、永遠に記憶にとどめるためである。神風特別攻撃隊員の偉大さは、特攻隊員として志願し採用されたときから、その後の幾月もの訓練期間を通じて、彼らがその終局の使命は明かに死への突入であると自覚していたことである。これら特攻隊員が、その長い訓練期間にしめした冷静さと熱意を最後まで堅持したことが、彼らを非凡の人間としたのである。それは凡人にとっては、さけることのできない精神的な苦痛であった・・・・・・」 

 

 

米空母セント・ローに突入直前の敷島隊機

なぜカミカゼの記念碑がフィリピンの地に建てられたのか

フィリピンに建てられたカミカゼ記念碑

 フィリピンの首都マニラをしばらく北上して、市街地から出ると広大な田園地帯が広がっている。南国の豊かな日差しを浴びて、元気のよい緑が広大な平地から遠くの山々を覆っている。南九州から沖縄、台湾の景色と明らかな連続性を感じさせる。さらに北上すると、広大な平野の中の道路脇に、ポツンと小さな霊園のような敷地がある。四角い壁に囲われた中に横に長い石碑が立っている。筆者が訪れた時には、車の交通もまばらで、あたりは静かだった。

 これがフィリピン人ダニエル・ディソンが奔走してフィリピン政府により建立されたカミカゼ記念碑である。このあたりは先の大戦中、日本軍が使用していたマバラカット飛行場であり、ここから最初の神風特別攻撃隊が飛び立った。記念碑には、ディソンが書いた次のような碑文が記されている。

 第2次大戦終結までに、カミカゼはアメリカ軍艦を総計322隻撃沈または大破、9千人以上の海軍軍人を戦死させ、一方、5千人のカミカゼ隊員の内4600人が自殺攻撃にて戦死した。カミカゼは、世界史上比較しうるもののない全く大胆不敵なものであった。歴史的調査が明らかにしたところによれば、カミカゼを支えた信条とは、世界のすべての民族に対する機会の均等と親睦が、自らの死によって実現されることを心底から願って自らの身を捧げたカミカゼ志願者達の思いである。

 ディソンが大戦中に日本軍人と出会ったのは11歳の時であった。一人のフィリピン少年はどのような思いで、このような記念碑を造るに至ったのであろうか。

 

12月の深い青色の空に白く輝く機体

 1941(昭和16)年12月8日、午後1時頃、昼食を終えたディソン少年が立ち上がった所で、突然地面が揺れ、窓がガタガタと鳴った。祖父が「地震だ、地震だ」と叫んだ。その後に、ゴーという低い轟音がして、続いて、ポップコーンが破裂するような音が空から降ってきた。窓に駆け寄って空を見上げると、小さな破裂した煙がいくつも見え、そのはるか上に爆撃機の編隊が二つ見えた。初めて見る日本軍だった。地震だと思ったのは、その爆撃機が落とした爆弾だった。近くにあるクラーク飛行場は、アメリカ軍の極東での主力基地である。そこを日本軍が急襲したのだった。

 祖父は「何故日本がこんなところを攻撃できるんだ。日本はもっと遠くにあるはずじゃないか」と叫んでいた。祖父は新聞で日中戦争の事を知っており、また近くに住む中国人が日本人は残虐だと触れ回っていたので、日本軍をとても恐れていた。もちろん私は日本軍をとても恐れてはいました。しかし、その時心の中では密かに日本軍のことを賞賛していました。何しろ決して敗れないはずの白人を、私達と同じアジア人の日本人がやっつけているのですから。私達は皆、日本の爆撃機の数を数えていました。私はその光景を忘れません。12月の深い青色の空に機体が白く美しく見えました。

 

日本兵から貰った乾パンと金平糖

 年が明けて1月1日、日本軍がディソンの住むアンヘレスの町にもやってきた。アメリカ軍とその指揮下にあるフィリピン兵たちは、散発的な抵抗をしながらも、南に逃げていった。ディソンの一家は戦闘を逃れて、深い谷間に数日隠れていたが、ようやく静かになったので、町に戻ってきた。町には大勢の日本兵がいた。ディソン少年の伯父はマニラで日本人と働いたことがあるので、「『アリガト』と言え」と、教えてくれた。そこで、ディソンらが「アリガト! アリガト!」と言うと、日本兵はみな笑い出した。

 何かひどい扱いを受けるのではないかと心配していたディソンは、少しほっとした。日本兵たちは、ポケットから何かを出して、子供達に渡した。ディソン少年も一つ貰ったが、それは布でできた小さな袋で口をひもで縛るようになっていた。巾着である。明けてみると、小さな四角いビスケット(乾パン)と砂糖のボール(金平糖)が入っていた。それが、ディソンが日本兵からもらった最初のものだった。

    

日本軍将兵とフィリピンの子供達

 やがてディソン少年は、日本兵たちとバスケットボールをしたり、また知り合いが日本軍の炊事場で働くようになると、その手伝いをするようになった。ヤマカワ中尉という25歳くらいの人が、ディソンを自分の弟に似ていると言って、可愛がってくれた。よくディソンの手をとって、一緒に散歩をした。ある時、ヤマカワ中尉はディソンが描いた絵を見て、「うーん、ベリーグッドじゃないか」と言った。そして時々、白い紙を鉛筆をくれて、自分や部下の絵を描かせた。妻子を故郷においてフィリピンに駐屯している日本軍将兵たちにとって、フィリピンの子供達は心を和ませてくれる存在だったようだ。

 後にディソンの妻になるエンリケッタも、アンヘレスのすぐ南のポラックという町に住んでいて、似たような経験をしている。近くに日本軍の飛行場があり、毎日そこに行って、雑草を引き抜く仕事をしては1ペソ貰う。やがて背の低いがっりとした体格の日本兵が、エンリケッタによくキャンディーやクッキーをくれるようになった。エンリケッタは飛行士たちとも仲良しになった。飛行士の一人はエンリケッタを抱き上げて、戦闘機の翼の上に乗せ、その特設ステージで、エンリケッタは得意の歌と踊りを披露した。

 司令官のマエダさんはそんな光景をいつも見ているだけだったが、ある時、エンリケッタが熱を出して二日も基地に行かないでいると、トラックで家まで見舞いに来てくれた。そして袋一杯のキャンディーとクッキーを置いていってくれた。

 

鉢巻きをした日本軍の飛行士たち

 しかし、1944(昭和19)年になると、戦局が悪化し、食糧事情も悪くなっていった。共産ゲリラや親米派ゲリラの活動が活発になり、親日派の市長や警察署長、そして日本兵の暗殺が行われるようになった。日本軍そのものが幹線道路で待ち伏せ攻撃を受けるようになり、日本の将兵は疑い深くなっていった。ゲリラを支援した人間や、ゲリラとの疑いをかけられた人々が処刑された。9月21日、アメリカ軍の飛行機がアンヘレス周辺にあるすべての飛行場を爆撃した。それからは毎日、空襲があった。その頃から、アンヘレスで鉢巻きをした日本軍の飛行士たちを見かけるようになった。日本の兵隊たちは、彼らと街で会うと、お辞儀をしていた。

 ある晩、この飛行士たちが泊まっている家からピアノの伴奏が始まり、いろいろな軍歌が聞こえてきた。悲しい調子の曲も流れた。その一つが「海ゆかば」だった。そして翌朝、彼らは飛び立つと、二度と帰ってこないのだった。

こうした事が繰り返されたが、ディソン少年を含めフィリピン人たちは、彼らがどういうことをしているのか、知らなかった。

    

運命を変えた一冊の古本

 1945(昭和20)年1月28日、アメリカ軍がアンヘレスを解放した。アンヘレス周辺には、敗走し、部隊からはぐれた日本兵たちがうろうろしていたが、ゲリラや米軍などに容赦なく殺されていった。2ヶ月もするとアンヘレスでの生活ももとに戻った。ディソンはしばらくアメリカ軍の身の回りをする仕事をしていたが、6月には高等学校が再開されたので、仕事を辞めて、学校に通い始めた。

 1946年7月4日、フィリピンは独立したが、経済はアメリカ人に牛耳られ、独立とは名ばかりのものだった。共産ゲリラが政府を攻撃し、街を爆弾などで襲う事件が頻発した。ディソンはフィリピン大学の美術学部の奨学生に選ばれた。美術の勉強の傍らで、歴史にも興味を持つようになった。そして、フィリピンの歴史を掘り下げていくと、全く教えられていなかった事をいくつも発見した。

 たとえば、フィリピンは16世紀にスペインによって植民地化される前に西洋文明とは違った文明を発達させていた。その事を知っただけで、フィリピン人としての誇りを感じた。アメリカの植民地時代には、常にアメリカ人の下にいて、その顔色をうかがっており、かつてフィリピン人の誇りを持ったことはなかった。

 1963年に大学を卒業すると、画家になるための修行をしながら、伯父と伯母が始めた会社に勤め始めた。1965年、35歳の時、ディソンの兄がマニラの路上の古本屋で、一冊の古本を買った。それがディソンの運命を変えた。

    

「何かをしなければいけない」

 その本は『ディバイン・ウインド(神風)』というタイトルのアメリカで出版されたポケット版の本だった。猪口力平(元大佐)・中島正(元少佐)著『神風特別攻撃隊』の英訳版である。この本を兄から借りて読んでみて、ディソンは衝撃を受けた。クラーク飛行場やアンヘレス、そしてその隣町でカミカゼが生まれたマバラカットについて書かれていた。少年の時に見たあの鉢巻きをした飛行士達がカミカゼだったのである。

 読み進むに従って、私はこの本により深く結びつき、カミカゼの飛行士達に驚き、心が動かされていきました。私

はカミカゼの意味について深く知っていきました。そして、本の最後で、カミカゼの飛行士達の遺書に行き当たりました。これらの遺書を読むと、私はカミカゼのことを記録し残していくために何かをしなければいけないと強く思うようになったのでした。

    

カミカゼの記念碑建立

 ディソンは、著者の猪口氏や中島氏と手紙をやりとりして、カミカゼが1944年10月20日にマバラカットで誕生したことを確認した。息子達の教育費で生活の方は苦しかったが、そんな中でディソンは政府に、カミカゼが初出撃した飛行場の跡地に記念碑を建立するよう働きかけた。妻のエンリケッタも学校の教師をしながら、ディソンの活動を支えてくれた。幼いころ、日本の飛行士達と遊んだ記憶が、無意識のうちにそうさせたのかも知れない。

 しかし、状況は最悪だった。ディソンは体調を崩し、1971年には会社を辞めた。翌年、マルコス大統領がフィリピン全土に戒厳令を敷き、アンヘレスも共産ゲリラの活動で治安は最悪だった。そんな混乱の中で、もし政府関係者が反日の人間だったら、ディソンも逮捕されるかもしれない。

 1973年、ようやくチャンスがやってきた。マルコス大統領が日本からの投資を呼び込もうと、マニラの南郊2時間の場所に日本将兵の慰霊碑を建てる事を許可したのだ。ディソンはマルコス政権の観光局長に会って、カミカゼの記念碑を建てる事の方がずっと重要であることを説いた。局長は賛同した。一週間も経たないうちに観光局のジャーナリストが取材にやってきて、ディソンがカミカゼについて話した内容を全国版の新聞に掲載してくれた。

 こうして1974年にかつてのマバラカット東飛行場の跡地に「第2次大戦に於いて日本神風特別攻撃隊機が最初に飛び立った飛行場」という碑文が入った記念碑が建立された。

 観光局のジャーナリストが記念碑完成を報道すると、アメリカやカナダ、シンガポール、スペインなどから記者が取材にやってきて、カミカゼ記念碑を世界中に報道した。それで世界各地から観光客やジャーナリストがやってくるようになった。

    

「アジア人が到達しうる究極のもの」

 ディソンは、今のフィリピン人は、アメリカと中国、ヨーロッパと日本が混じり合ったもので、明確なアイデンティティがない事がとても悲しい、と言う。私の家にある小さなカミカゼ博物館には、定期的に高校生や大学生が訪問しますが、・・・私は、カミカゼ精神とはアジア人が到達しうる究極のものであることを、彼らに教えているのです。

 カミカゼの精神は、自らのアイデンティティ、自らの名誉や文化を守るために、自らの命を引き換えにするところまで、人は到達できることが出来るのだ、ということを示しているのです。そして、フィリピン人は彼らのような行為をまだしたことがない、と学生達に教えているのです。

 カミカゼの精神が日本人としてのアイデンティティにどう関わっているのか、それを理解することは、現代の日本人には難しくなってしまった。しかし、同じく特攻隊員の手紙や遺書を調べたイワン・モリスの次の言葉が良いヒントになるだろう。むしろ彼らの言葉は、日本人として生まれてこのかた受けた恩恵にたいして、報恩をしなければならないという気持ちを表現しているのではないだろうか。恩恵を受けてきた、今も受けているという気持ちと、いざという時に必要とあればどのような犠牲を払っても、その恩に報いたいという気持ちが、平戦時を問わず何世紀にもわたって、日本人のモラルの力強い底流をなしていたと思うのである。(文責:伊勢雅臣)

引用:Japan On the Globe(524)■ 国際派日本人養成講座 ■地球史探訪:フィリピン少年が見たカミカゼ なぜカミカゼの記念碑がフィリピンの地に 建てられたのか。 転送歓迎■ H19.11.25 ■ 35,711 Copies ■ 2,693,809 Views■ URL: http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog524.html


徳州新聞 No.360 - 2003.4.15

.........それにしても、フィリピン人が特攻隊を崇めるというのはどういうことなのか。門司はディソンに聞いてみた。「私たちフィリピン人は白人支配の犠牲者です。かつて日本の統治を受けた台湾や韓国をご覧なさい、立派に経済的にも繁栄を遂げているでしょう。これは日本が統治下で施した教育の成果です。でもアメリカはフィリピン人に自分でものをつくることを学ばせなかった。アメリカがつくったものを、一方的にフィリピン人に売りつけてきたからでした。だからフィリピンでは鉛筆一本つくれない。アメリカは、植民地フィリピンに対して愚民政策を推し進めてきたんじゃないでしょうか」というのが、ディソンの答えだった........神立尚紀著「特攻の真意」大西瀧次郎 和平へのメッセージ 文藝春秋 2011年8月15日 第一刷発行

20180916 1322 更新